国家興亡の四十年 p8

「しかし私はむしろ、ペルリが来て12年後、慶応元年(1865)に、京都の朝廷までが日本を「開国する」と国策を変更した、その時を近代日本のスタートと考えたほうがいいと思っています。
……国策として開国を決め、そこから新しい国づくりといいますか、世界の文明と直面しつつ自分たちの国をつくっていかなければならなくなりました。」

三年後が明治時代の始まり。以降、少々の無理を承知でいくらか背伸びした国家建設をけんめいにやった。

そのころ、
インド・ビルマシンガポール イギリスの植民地
香港 イギリスが強引に中国から100年借りる
インドネシア オランダの植民地
インドシナ3国 フランスの植民地
フィリピン アメリカの半植民地

「日本 アフリカのほうで戦争が起こって欧米列強がアジアから自分の国に帰らなくなったりの幸運もあって、植民地にならずにすみました。それは別にしても、明治の日本の人たちが、とにかく一人前のしっかりした国をつくろうとがんばったことは確かなんです。
明治27、28年(1894、95)の日清戦争に勝ち、明治37,38年(1904,05)日露戦争にかろうじて勝ち、世界の国々から、アジアに日本という立派な国があることを認めてもらうことができた。」
=開国から40年で近代国家を完成

大正、昭和になり、
「自分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の仲間に入れるのだ、と日本人は大変いい気になり、自惚れ、のぼせ、世界中を相手にするような戦争を始め、明治の父祖が一生懸命つくった国を滅ぼしてしまう結果となる。

もうひとついえば、敗戦国日本がアメリカに占領されて、…いいなりになる苦労の7年間を過ごし、講和条約の調印を経て新しい戦後の国づくりをはじめた、これは西暦でいいますと1952年のことです。

さらにさまざまなことを経てともかく戦後日本を復興させ、世界で1番か2番といわれる経済大国になったはずなんですが、これまたいい気になって泡のような繁栄がはじけ飛び、「何だこれは」と思ったのがちょうど40年後、同時に昭和が終わって平成になりました

こうやって国づくりを見てくると、つくったのも40年、滅ぼしたのも40年、再び一所懸命つくりなおして40年、そしてまたそれを滅ぼす方へ向かって10何年過ぎたのかな、という感じがしないでもありません。」

これから話す昭和の前半は、滅びの40年の真っ只中。世界の5大強国のひとつ帝政ロシアを打ち破って一応「近代日本」が完成した結果、最初の40年で日本が何を得たかをみてみることにする。