芥川龍之介『支那游記』から

一方、ロシアに勝ったからといって日本に満州の権益を奪われてよいのかという議論が清国の知識人・軍人を中心に起こる。列強の跋扈と軍閥の勢力争いを憂える知識人らにより革命運動が起こる。
日本で学んだことのある孫文や、蒋介石ら有能な軍人による辛亥革命が起き、大正元年(1912)清朝は滅び中華民国が誕生した。


「日本が朝鮮半島満州を経営し始めたときに、時を同じくして隣の大国・中国が新しい国づくりをはじめたことになります」
中華民国は各地の軍閥に勝利、「日本はそれを見て、困った事態になったと思ったでしょう。それでなくとも満州をめぐって清朝政府ともめていたのですから。……中華民国にすればそれこそ無関係の日本が満州の諸権益を奪っているのですから、これを許せないと思うのは当然です。当然将来における日中の衝突が予想されます。」


そこへちょうど大正13年(1914)、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発。ドイツ対イギリス・フランス・ロシアの構図のため列強の目はアジアから遠のき、これを捉えた日本は大正14年(1915)「対華21か条の要求」(内容:南満州鉄道や安奉鉄道の経営権、関東州の租借その他、すべての特殊権益の期限を百年くらい延ばす)を突きつけ、武力をもってむりやり認めさせた。


義和団事件(1899〜1901北清事変とも)以来列強が中国各地に駐屯、上海に租界をつくるなどしており、中国民衆の怒りがあったが、この頃から怒りの矛先が日本に向くようになる。大正8年(1919)には北京の学生が21ヶ条の要求に対する猛烈な抗議行動を行い、日本が弾圧した(五・四運動)。


作家の芥川龍之介(1892-1927)が大正10年(1921)3月下旬から7月下旬まで約120日間、新聞社の特派員として上海、南京,漢口、長沙、洛陽、北京、大同などを尋ねルポを書く(『支那游記』)。
杭州の西湖では

「……この唐代の美人の墓は、瓦葺の屋根をかけた、漆喰か何か塗ったらしい、詩的でもなんでもない土饅頭だった。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋の普請の為に、荒され放題荒されていたから愈(いよいよ)索漠を極めている。掘り返された土の上に、痛々しい日の光が流れている。おまけに西冷橋畔の路には、支那の中学生が二三人、排日の歌か何かうたっている」

蘇州、天平山白雲寺では、

天平山白雲寺へ行って見たら、山によった亭(ちん)の壁に、排日の落書きが沢山あった。『諸君儞在快活之時、不可忘稜三七二十一条(しょくんなんじかいかつのときにありて、さんしちにじゅういちじょうをぼうするべからず=諸君、どんなに愉快なときであろうと、二十一カ条を忘れ去るべからず)』というのがある」
「『犬与日奴不得題壁』(いぬとにちどかべにだいすることをえず=犬と日本人だけは、壁に文字を書くことは許されない)と云うのがある。(中略)更に猛烈なやつになると、『莽蕩河山起暮愁。何来不共戴天仇。恨無十万横磨剣。殺尽倭奴方罷休』(もうとうたるかざんぼしゅうおこる。いずくよりきたるともにてんをいだかざるのあだ。うらむらくはじゅうまんのおうまけんなく。わどをころしてまさにひきゅうせん。=今や中国の山や河は猛り狂っている。それを見ているとおのずから憂いが起こってくる。なぜ中国にやってきたのか、ともに天をいだかざる敵が。恨みをもった十万の民衆が剣を磨いていて、日本人を殺し尽くして初めて休むことができる。)」

「聞けば排日の使嗾(しそう)費は、三十万円内外とか云う事だが、この位利き目があるとすれば、日本の商品を駆逐する上にも(駆逐するよりも)、寧ろ安い広告費である」

長沙で学校参観。

「……古今に稀なる仏頂面をした年少の教師に案内して貰う。女学生は皆排日の為に(日本製の)鉛筆や何かを使わないから、机に上に筆硯を具え、幾何や代数をやっている始末だ」

「次手(ついで)に寄宿舎も一見したいと思い、通訳の少年に掛け合って貰うと、教師愈仏頂面をして曰、『それはお断り申します。先達(せんだって)もここの寄宿舎へは兵卒が五六人闖入し、強姦事件を惹き起こした後ですから』!」

つまり、中国では国家づくりがまだ完成していない時にこれくらい排日運動が盛んで、日本に与えた満州の権益を返せという声がぐんぐん強くなっていった、それが大正から昭和はじめにかけての状況でした。


※ 『支那游記』が含まれる文庫本。

芥川龍之介全集〈8〉 (ちくま文庫)

芥川龍之介全集〈8〉 (ちくま文庫)