情勢悪化の昭和の開幕

同時に、大正終わりにかけて、蒋介石の国民党軍が強くなり、共産党軍は北へ逃げてゆく(「長征」)。国民党は大正15年(1926)北へ進撃を開始(「北伐」)、北京に達する。=中国の国家統一が近づく。
一方、帝政ロシアでは大正6年(1917)にロシア革命ソビエト政権が樹立。


「要するに昭和というのは、中国が統一に向かっているのを恐れると同時に、日本が最大の仮想敵国とみていたロシアも新しい国づくりを始めるといった、日本を取り巻く環境がどんどん悪くなっていく、国際情勢が激動し始めたときにスタートしたわけです。しかし、強国になった日本を保持し、強くし、より発展させるためにはどうしても朝鮮半島満州を押さえておかなければならない。未来永劫に。それにはどんどん悪化しつつある状況にどう処理すべきか、これが日本にとっての大使命であり、昭和の日本人がもっとも解決を急がされる命題としてつきつけられた、ここから昭和がはじまるのです。
 昭和史の諸条件は常に満州問題と絡んで起こります。そして大小の事件の積み重ねの果てに、国の運命を賭した太平洋戦争があったわけです。とにかくさまざまな要素が複雑に絡んで歴史は進みます。その根底に”赤い夕陽の満州”があったことは確かなのです。」

第一次世界大戦では、「あとになって分け前が欲しくなって」突然参戦、戦勝国に。1919年のベルサイユ条約で日本はドイツの権益であるマーシャル諸島など南洋諸島委任統治領としてもらって、「またいい調子になってしまう。」
ところが大正3年(1917)から7年という長期戦のため欧州諸国は国力財産をなくし疲弊、国際連盟をつくり、国際協調、軍備制限の声が盛んになる。
イギリスが中心となりアメリカと手を組み、フランスなど戦勝国が軍備縮小に向けて話し合う。このワシントン海軍軍縮条約(日本は大正11年に正式調印)では、主力艦(戦艦・航空母艦)の比率として英・米・日が五・五・三となるよう定められた(五・五・三の比率)。


日露戦争日本海海戦で勝って大国となった日本は「五・五・三」が「不愉快でしょうがない」。
しかし「先見の明ある」海軍軍人加藤友三郎が全権大使として行き、


「国防は軍人の占有物にあらず、戦争もまた国家総動員してこれに当たらざれば目的は達しがたし。……平たく言えば、金がなければ戦争はできぬということなり」と言い切りこの比率を認める。


これはよかったが、ただその前に、「アメリカの実に巧みな外交作戦が日本を動かして」日英同盟明治35年(1902)=中国などにおける互いの権利の保護などを取り決め)が廃棄される。
これが日本のその後の外交にたいへんな影響を及ぼすことになります。それまで日本とイギリスは非常になかのよい国だったのですが、その関係が切れて、日本は独自の道を歩いていくことになる。
ワシントン軍縮条約」と「日英同盟廃棄」の世界体制が、「昭和」に入って大問題になる。