国防最前線としての満州 p11

帝政ロシア不凍港を求めて満州に乗り込み、武力をもって深刻と条約を締結し、満州における諸権益(旅順・大連を自分のものにした)を奪取。
日露戦争とは結局、このように帝政ロシアがどんどん南に下りてきて、旅順・大連を清国から強引にもぎ取り、さらに朝鮮半島へ勢力を広げてきたことにたいへんな脅威を抱いた日本が、その南下を食い止めんと、自存自衛のために起こったものです。」
日露戦争に勝った日本は、ロシアとの条約、さらには清国と「満州ニ関スル条約」などを結び、諸権益を得る。
ここでの諸権益

遼東半島のほとんどを借り受けて自由に使う。
南満州鉄道長春(のちの新京)と旅順の間)の鉄道経営権をもらう。
③軍用の安奉鉄道(安東(現在の丹東)と奉天(現在の瀋陽)の間)の経営権を得る。
南満州鉄道に属する炭鉱の採掘権を得る。
⑤(のちに)鴨緑江右岸地方の森林伐採権を得る。
⑥鉄道守備の軍隊駐屯権を得る。

満州国の3つの役割)
1「この結果、ひとつはロシア…が諸権益を奪い返しに再び南下してくる可能性があるゆえ、国防のための最大の防衛線--のちに日本の「生命線」と言われます--日本本土を守るための一番先端の防衛線を引くことができた、生命線としての満州ができたことになります。」

はじめは駐屯軍は1万人くらい(最後には70万人まで増える)。
もっぱら関東州の旅順・大連に司令部を置いたので、のち大正8年(1919)から「関東軍」と呼ばれるようになる。

2「資源の乏しい日本はそれまで鉄や石油、鈴や亜鉛などをもっぱらアメリカと、イギリスなどの植民地である東南アジアの国々からの輸入に頼っていましたが、もうその厄介にならなくていい、自力で生きる道が出来上がった、と大いに期待した、
つまり日本本土を守るための資源供給地としての満州が注目されたのです。」(石油は出なかったが…)

3「人口がどんどん増えて問題が起こっていた狭い日本には、人口流出先としても満州が重要視されました。」
明治の終わりから盛んに移民政策、昭和に激増。昔からの満州人、開拓した蒙古人、朝鮮人の土地を強制的に取り上げたり、「ものすごく安い金で」買い取ったりして恨みを買うことに。
のち昭和11年(1936)、広田弘毅内閣「20年間百万戸移住計画」
「最初は農家の次男坊三男坊、日本では食い詰めてひと旗上げようという人たち、弾圧により日本にいられなくなった転向したコミュニスト社会主義者などなど、昭和にかけてあらゆる人たちが満州に移住し」移民は40万から50万人まで増えた。

明治の終わり以降、満州経営が政治の中心課題に。
「日本本土を防衛するために朝鮮半島に日本の軍隊をおいてしっかり守ろうということになる、朝鮮半島を防衛するためには地続きである満州を守らねばならないのです。」
満州での権益を守り利用するため、明治40年(1907)頃に満州経営が始まるのと同時に、朝鮮半島李氏朝鮮は退廃し外国が好き放題)を圧迫、ついに明治43年(1910)に併合。
「ただし国際的には認められていましたが。」